こんにちは。
未だに正月ボケから抜け出せない足立です。
さて、今年は明治元年1868年からちょうど150年という事で、京都はもちろん様々な地域で「明治維新150年」と銘打ったプロモーションが展開されています。
歴史時計的に言えば、今まさに明治維新の重要局面「鳥羽伏見の戦い」(1868年1月)から新たな段階へ…そんな頃でしょうか。
そこで先日、「鳥羽伏見から旧幕府軍の足跡を辿る」というテーマでツアーを行ってみました。
・鳥羽伏見の戦い開戦地跡 (→近鉄 竹田駅より 徒歩20分)
鴨川下流の住宅地にひっそりとたたずむ石碑。明治新政府軍と旧幕府軍が激突したその場所です。
まさにここから鳥羽伏見の戦い〜戊辰戦争が始まった事になります。
・淀城 跡地 (→京阪 淀駅より 徒歩2分)
旧幕府軍が譜代大名である淀藩から入城を拒まれる、というエピソードで有名な淀城の跡地。
今では近所の子供達が遊び回る公園へと姿を変えています。
・大阪城 (→京阪 天満橋駅より 徒歩5分)
旧幕府軍が集結する要塞となっていた大阪城。
時代によって異なる顔をもつ大阪城ですが、現在では外国人観光客の人気スポットとして賑わっています。
…以上、鳥羽伏見から大阪へと撤退する旧幕府軍の足跡を辿ってみました。
寒さがこたえましたが、当時の季節感を味わう事ができ、有意義なツアーとなりました。
鳥羽伏見の戦いは、新政府軍に対し、3倍もの兵力を有していた旧幕府軍が敗北するという結果となりました。昔の時代劇などでは、近代装備の新政府軍、対する旧式装備の旧幕府軍、といった構図で描かれていたため、ストーリーが非常に明快でした。が、実際には旧幕府軍の主力部隊はフランス式の訓練を受け、装備も戦術も近代化されていた事が史実とされています。
さらに、新政府内で倒幕勢力はコンセンサスを得ていた訳ではなかったため、政局でも旧幕府側はそこまで不利な状況とは言えませんでした。
ではなぜ、旧幕府軍は負けたのでしょう? そんなクエスチョンに心をくすぐられます。
そこで原因を探っていくと、見通しの甘い作戦計画や、誤った人事、意思疎通の不足、過信、はたまた偶然…など様々な要因が浮かび上がってきました。 1つひとつに決定打は無いものの、大小複数の要因が重なり戦況を悪化させていったようです。
そして、それらの根源となったのはトップのモチベーションではないでしょうか。つまり将軍徳川慶喜の戦意の欠如が、作戦全体の方針をあいまいにし、中間階層での人事ミスや油断を招き、更に現場へと影響を及ぼしていった…そんな現代の企業でも起こり得そうなストーリーが見えてきます。
この点に関して、新政府軍と旧幕府軍とでは決定的な差があったのです。
ではなぜ、将軍 慶喜はやる気が無かったのでしょう? そんなクエスチョンに心をくすぐられ…(無限ループ)
こんな風にして、自分なりのストーリーを思い描く作業は、歴史を楽しむ醍醐味の1つではないでしょうか。
ふと気が付きましたが、これはデザイン制作のプロセスとも似ている気がします。デザインを生み出す上でも、情報を集め、分析・整理し、方向性を設定するといった作業をベースに、最終的に形が造られていきます。
おもしろいのは、同じ情報を扱っていても、人それぞれによって多様なストーリーが生まれる事です。他者による思いもよらない発想に驚かされる事もしばしば。そんな様々なストーリーをぶつけ合ったり受け入れたりする事が、より良いデザインを生み出すための重要なやり取りなんだと思います。
いつの間にか違う話になってしまいましたが、
今回言いたかったのは
「歴史ってホントにおもしろい」という事でした。
ではまた〜